工業の道

工業製品はどこへ向かうのか。
むしろ工業デザインはどこへ向かうべきか。
工業製品のデザインに携わる身としてよく考える。

工業製品は性質として大衆へ向けてつくられる。同じものを大量に生産することで安価に品物を提供できるから。薄利多売は資本主義社会がもたらした発明だ。そのため必然的にどこにでも合うようなものを理想的なデザイン像に据えるようになり、売り場を求めて世界へ出る。これら生産活動による恩恵は計り知れないが、正しいとは到底思えない。グローバルスタンダードを狙うのは資本主義社会としては正しいかもしれないが、全世界が均一になることは誰も望んではいないわけで。全く同じ仕様の製品が世界中に溢れたとして、それで世界中が豊かになるのかは疑問だ。

実はここで工業製品は詰んでいて、大量生産品が生活を豊かにする最善の選択肢ではないことは明らかな事実。
でも、かといって工業製品がなくなることも今のところ考えられない。振り替えれば規模は違えど縄文時代から同様のものをつくるという行為はしてきたのだから、複製を起源とすればかれこれ一万年以上の歴史がある。無論、産業革命を起源とするならば高高数百年だが、今の時代にも工業製品の価値は多少なりともあるはずだ。それに、周りの人々と同調したいという欲もあり続けると思う。

 

一人の工業デザイナーとしての希望としては、国や地域がわかるデザインが増えてほしいと願っている。というより、これこそが工業製品の正しい道だと思う。

ここでいうデザインとは主に色と形。
近年ではその成果物に至るまでのプロセスや思想もデザインと据えてられているが、どんなにコンセプトを練ろうが結局は「かたち」だと思う。デザインは計画を目に見える形に表すことだから。
ちなみに、作品を手掛けるにあたってどのように考え思案したか、それそのものよりも成果物の背景に重きを置くものはアートに分類される。個人的にはアートもデザインも好きなので成果物の分野はどちらに解釈されてもいい。ただ、明らかなアートをデザインという同業者は好まない。とくに工業デザインに関しては。

制約の美でも述べたように今日はあまりにも自由で美を担保していた制約は皆無でありローカライズする前にパーソナライズに向かっている。個の方向性に統一感がないのだから当然美しい町並みや風景や文化は生まれにくい。だからこそ今一度、自国の文化や地域性を意識するべきなのではないか。

ここで大切なことは、単なる過去の繰り返しではなく、世界中の様々な思想や技術や知識を得た上で、脈絡と受け継がれてきた日本の美意識や価値観を用いて新たな日本を創造できるか。

参考になる時代としては遣唐使を廃止した平安時代。国風文化とも称されるほど日本らしさが育まれ、紛れもなく新たな日本が生まれた。この「日本らしさ」とは、隋や唐といった大陸の影響が色濃い飛鳥や奈良とは全く異なる。今僕らがすべきことは平安の如く、千年ぶりの国風文化を興すこと。ここに一筋の光明が差している。

幸いグローバル社会になったお陰で、世界中から頂き物が沢山ある。これらを片っ端から国風にしていく行為は、混沌とした現在の日本にとって真っ当な社会的意義がある。一点、大事なこととして「日本らしさ」は生み出せるということ。

 
工業の道 一筋の光明

国風は日本の工業デザイナーが目指すべき、ひとつの正しき道ではないか。