日本語の成り立ちが気になり「やまとことば(大和言葉)」を調べたことがあった。きっかけとしては、「ものづくり」という言葉が「やまとことば」であることから興味が湧き、結果として「ものづくりの本」の中では「ものづくり」の主観的な解釈を発表している。
思案するにあたって読んだ書物の中で最も参考にしたのは、中西進氏が書かれた「ひらがなでよめばわかる日本語」という書籍。簡単に説明すると、音に意味が生じる言葉が「やまとことば=日本語」である。訓読みのほとんどは「やまとことば」であり、その音に耳を傾けると日本人の根源的な物事の捉え方や、世界観が見えてくる。
基本的に同音は同じような意味を内包しており、例えば「ひ」は「日」であり「火」でもあることから、太陽や火を表す言葉が「ひ」にあたり、そのため日が出ているときを「ひる」と表現しており「昼」の字があてられている。他にも「み」は「水」を表し「海」は「生+水」と考えられる。「源」は「み+な(の)+もと」で水源を意味することから「み」には命の源や神秘を感じていた。「目」「耳」「鼻」が「芽」「実」「花」と、植物に対応しているのもおもしろい。姿形ではなく役割や立場によって認識をしていたことが明白で、古来より感性の豊かな民族であったと考えられる。万葉集に「言霊の幸はふ国」とあるが、音の意味を知るにつれ本当に一音一音に言霊が宿っているのだと感じる。
新たな発見としては、「絵心経」や「めで鯛」といったように、日本人はやたらに言葉遊びが好きだなと何となく感じていたものが、日本語の起源である「やまとことば」を調べたことで理解できた。つまり、本質の意味(音が内包する言霊)が大切な「もの」や「こと」であり、文字や絵は本質を伝えるための記号に過ぎない。また、外来語を区別することは本来私たちが持っていた感性を呼び起こすきっかけにもなりうる。たとえば「曖昧」や「自然」は外来語であり、日本にはその概念がなかった。この事実は、日本語がとても明確に事象を表現してることや、人と自然を相対化する意識がなく、総体として捉えていたということを示している。
国語の授業で漢字の成り立ちは授業で習うが、やまとことばの成り立ちは習った覚えがない。日本人なのだから、母国語である日本語の成り立ちを学べる機会をつくるべきだと真摯に願う。
ちなみに漢字以前に文字がなかったのか、これについては少々疑問が残る。もちろん神代文字すべてが存在したとは思わないが、縄文時代には文字通り「縄文」という縄による文様がしるされていることや、縄文土器や粘土に対して引っ掻いた行為が「かく」の語源になっていることを考えると、「かく(掻く・書く・描く)」行為によって生じたそれらに何らかの意味を宿した可能性もあるのではないか。無論、仮に文字を持たなかったとしても、口伝のみで縄文の文化継承を一万年以上行ったのだから世界に誇れる文化だと思う。式年遷宮や邦楽など、大切な技術や事柄に口伝による伝承が多い事例から考えると、文字を持たなかったことの方が日本人らしいのかもしれない。
いずれにしても日本語という語圏が日本列島を守ってきたことは確かであり、これからも日本語を大切にしていきたい。
日本語には、一万年の文脈が流れている。