【小説】浮世離れ。

「潤、合格おめでとー! 真司も内定おめでとー!」
海鮮料理を囲み嬉しそうにしている友人たちを横目に、僕は終始つくり笑顔だった。
それを察したのか、翔は僕の隣に座ると声を掛けてくれた。
「なんだ新太、浮かない顔して?」
「いや…… みんな決まってていいなって」
呆れたのか、翔は笑い交じりに答える。
「なんだよ、そんなことかよ」
「そんなことって、これでも結構真面目に思い詰めてんだよ」
翔はお味噌汁のお椀を手に取り、こちらに向けた。
「新太には家業があるだろ。ほら、この漆器だって、新太のじいちゃんが塗ったやつだろ? もっと誇りを持てよな!」
「うん、そうなんだけどさ」
工業高校だから大半は企業へ就職をして、その他の学生は大学や専門学校へ進む。そして、残りのごく少数が、実家を継ぐ、という選択をする。たぶん、僕はこれ。
父さんは家業の知見を活かして美術館の学芸員になったから、僕が後を継がなければ家業は途絶えてしまう。
そう、僕には、誇りを持つべき家業があるんだ。
「こういう祝いの席だと、改めて漁港のある町で良かったと思うわ」
思いふけるように漆器を眺める翔は、唐突に夢を語った。
「俺は料理人を目指すからさ、店出すときは新太が漆器を作ってくれよな!」
「ん~どうだろ、気が向いたら」
「そこは気を向けろよ! って言いたいところだけど、まぁ、新太がやりたくなったらでいいよ。新太の人生だしな」
「ていうか、お互い建築家じゃないんだな」
「俺は自分の店の設計を自分でやりたいだけなんだよね。新太だって、本当は建築より漆器の方が好きだろ? 俺には分かる」
「まぁ、そうかもしれないな」
意外と将来を考えている翔が、少し羨ましい。
父さんは出張で家にいないことが多く、昔はしょっちゅうじいちゃんの工房へ遊びに行った。幼い頃からじいちゃんの手伝いをしてきたから、じいちゃんは僕が家業を継ぐことを願っていると思う。
もちろん楽しかったから手伝っていたし、図画工作は得意で、ものづくりが大好きなことは事実。それでも時が経つにつれて、何年も何年も、毎日毎日同じようなものを作ってるじいちゃんに、僕は何だか納得できなくなっていた。
「そういえば、新太の卒業設計ってなんだっけ?」
「建築設計というよりは、都市計画って感じかな」
「へー なんか壮大だな」
「まだ頭の中でふわふわしてて、具現化の一歩手前って感じなんだけど、温故知新みたいなのがいいなって」
「新太は現代建築も詳しいけど、古い日本家屋とかも好きだもんな」
「そうだね。個人的には現代建築が必ずしも素晴らしいとは思っていなくて、古い建築にも学ぶものがあると思うし、風土とか地域性って結構大切だと思うんだ」
「なるほど。深いな。まぁ、完成を楽しみにしてるよ!」
つくづく良い友達を持ったと思う。
食事の後、結局二次会には行かずに帰ることにした僕を、みんなは笑顔で見送ってくれた。

風は程よく暖かく、緑の残るススキがなびく。
月のない空には星がちらつきはじめ、鈴虫が秋の訪れを知らせる。
日が沈みかけた夕暮れの河原沿いを歩いていると、赤く染まった空は間もなく青、そして黒へと徐々に移り変わった。
9月を迎え過ごしやすい季節になりつつあるけれど、どことなく心地良くはない。
木に漆を塗る。それが伝統的に、あるいは文化的にどれだけ価値があるかということは、父さんの本棚を読み漁ったから大体分かっているつもり。
じいちゃんは無名で、民衆による素朴な工芸、いわゆる民藝に分類される。
民藝の特徴をざっくり言えば、実用、無銘、複数、廉価、労働、地方、分業、伝統、他力で、これら特性を有する民藝には、無心の美、自然の美、健全な美が宿ると言われてる。
このものづくりは、作者の個性を主張した美術工芸とは一線を画すものであって、飾り気がないのに美しい。
じいちゃんの手掛けてる漆器は、紛れもなく、それだと思う。
そもそも、美術や工芸は明治以降の言葉だから、西洋美術史に無理やり日本の伝統をはめ込まなくてもいいとは思うんだけど、それはとりあえず置いておこう。
とにかく、じいちゃんのものづくりは、素材も工程もすごくいい。
だけど、例えば種の起源では、強い者が生き残るのではなく、変化に対応できた者が生き残るって結論付けてる。
自然淘汰が製品や作品にどれほど反映されるかは分からないけど、でもどう考えたって、生活環境は日々変わってる。ずっと同じで良いはずはないんだ。

あてもなく歩いていたら、癖でじいちゃんの工房まで来てしまった。
庭には大きな木とちょっとした畑がある。工房は木造、瓦屋根の渋い民家で、入り口だけは赤いトタン屋根。
有耶無耶な心を抱えたまま、僕はすがるような想いで玄関の扉に手を掛けた。
そのままそっと扉を開けると、奥の作業部屋の明かりが見えた。
こっそりのぞくと、背中からでも楽しそうな雰囲気が伝わって来た。
天井からは丸い照明がぶら下がり、手元はデスクライトで照らしてる。低い机も床も杉の拭き漆で仕上げてあるから、深みのある光沢がいい味わいを醸し出す、渋くてかっこいい作業部屋だ。
「新太、おるのか?」
「あ、うん」
正面に見える窓の外は、すっかり真っ暗になっていた。
その窓際に、端から端まで部屋いっぱいに広がる低い作業台がある。
じいちゃんは座布団に座り、上半身は裸で背を向けたまま、その作業台で下塗りを続ける。
「はっはっは、元気がねえな! どうした?」
「あのさ、じいちゃんはどうして塗師になったの?」
「そりゃあもう、学がないからだ。わしにはこれしかできんかったからのう」
「こんなこと言うのも何だけどさ、毎日似たようなことやってて、楽しいの?」
「楽しいぞ。手が勝手にやっとるけどな」
手際よく作業する姿は、確かに手が考えてるみたいだ。
その筆遣いは、長年培ってきた鍛錬の賜物だと思う。
「だがなぁ、楽しかったからやっとるのか、やっとったら楽しくなったのか、はじまりはよう覚えとらん」
僕も夢中になれらたと、素直に思う。
じいちゃんは下塗りを終えると、室に器を入れ、少し間を置いてから口を開いた。
「好きにしてええよ。新太の好きで」
「じいちゃん、ありがとう」
そのまま帰ろうとしたけど、なんだか器が気になり、玄関横の棚に目をとめた。
飴色の木とガラスでできた年季の入った食器棚には、歴代の塗師が手掛けた漆器や地元の工芸品が置いてある。中には百年以上昔の古い器もあるらしい。
見慣れ切ったはずだけど、どうしても気になり、朱塗りのお椀を一つ持ち帰ることにした。
工房を後にすると、僕は歩きながら手に持っている漆器を眺めた。
持った感じはしっとりとしていて、見た目にはつやつやしている。
そっと唇をつけると、体温にほど近く実に心地いい。質感も、肌理の細かさも、これほど口当たりのいい素材はないと思うほどに。
僕はやっぱり、漆器が好きだ。
高校で工芸科ではなく建築科に進んだのは、ちょっとした反抗心から。
建築に興味があったというよりも、とにかく違う世界を見たかった。だから実のところ、分野としては何でも良かった。
でも、意外とこの選択は正解で、手に収まる工芸と、人よりも遥かに大きな建築は、同じものづくりでも全然違う。何から何まで新鮮な世界だった。
月の見えない、やけにくらい夜道。
辺りには多少靄が掛かっているが、見上げると星が瞬き空気は澄んでいる。人気がないのは夜も深いからだろう。
しばらくすると、右手に見慣れない鳥居を見つけた。
暗くて細部は見えないけど、木を皮のついた、原木のまま使った黒木鳥居のようで、二本の柱と笠木からなる随分原始的な鳥居だった。
導かれるように鳥居をくぐると、ジャリジャリと玉砂利の足音が、しんとした空間に鳴り響く。
空気は若干肌寒く感じたが、進むにつれて次第に慣れていき、火照った頭にはむしろ丁度よく、おのずと安心感すら覚えた。
足を進めると広場があり、正面には社殿のような建物が見える。
その建物は大きな屋根を支える柱と、高床の舞台のようなつくりで、手すりはあるものの四方に壁はなく、素材は檜の素木で小口は白く塗られ、向こう側には舞台に上がるための階段がある。伊勢神宮の唯一神明造のようだけど、屋根は檜皮葺だから確信は持てない。
辺りには、苔むした大地に背丈の高い木々が連なり、鎮守の杜が広がっている。
建物の奥に目線を向けると、石階段が見えた。階段の先は高台だから、何か祀られているんだと思う。
僕はすでに眠気の限界に達していて、朧気な記憶はここで途絶えた――。

「どちら様ですか?」
優しい声色に、僕は穏やかな気持ちで目を覚ました。
どうやら舞台の床で寝てしまったらしい。
目をこすり、ぼんやりとしていた視界が徐々に焦点を合わせると、可愛らしく清楚な女性がこちらを覗き込むように見ていた。
白い小袖に緋色の袴を身に纏い、箒を持っている。恰好から察するに、どうやらここの巫女さんらしい。
「すみません、神聖な場所で寝てしまって」
彼女は笑みを浮かべながら答えた。
「構いませんよ。それより、こんなところで寝てしまって、体調はお変わりありませんか?」
「お気遣いありがとうございます、大丈夫です」
本音をいえば心も体もどこか浮ついていて、他人の体を借りているような感覚さえある。
会釈をして立ち去ろうとしたが、ぐぅ~と空腹の音が鳴り、それに気づいた彼女はまた笑みを浮かべた。
「よかったら、食べにいらしてください」
「あ、ありがとうございます」
多少の疑問は抱きつつも、断る理由もないのでお言葉に甘えることにした。
「では、参りましょう」
彼女は僕の半歩前を歩く。
木漏れ日の中を歩く参道は、早朝も相まって清々しい。
昨日は気が付かなかったけど、木々の向こう側は建物が見えないほど深い森で、鳥のさえずりも聞こえる。
「ところで、お名前を伺ってもよろしいですか? 私は〈神宮寺みやこ〉と申します。〈みやこ〉とお呼び頂けたらと思います」
職業柄か、同い年くらいの彼女は、落ち着いた上品な口調で問う。
「越前新太です」
「新太さん、素敵なお名前ですね」
女性にそんなことを言われると、なんだか照れくさい。
でも、はじめて合う、どこの誰とも分からない人に名前を聞くだろうか。
「新太さんは、どうしてこちらにいらしたのですか?」
「実は、昨日のことはあまり覚えていなくて」
「そうでしたか。でも、お元気そうで何よりです」
食事にも誘ってくださり、とても親切でうれしいことは事実。それでも、あまりに自然体すぎるご厚意に、どこか異国のような感覚さえ覚えた。
「朝っていいですよね。澄みきった空気にいつも癒されるんです」
「確かに、とても気持ちいいですね」
言われてみれば、深呼吸したくなるほど気持ちがいい。
とはいえ、そもそもここはどこなんだ。
こんな参道、地元にはないはずだけど。
「結界を過ぎると、すぐそこです」
前方には、昨夜、吸い込まれるように誘われた原木の鳥居が見えた。
こちら側の参道は、辺りを木々に覆われ薄暗く、寝起きも相まって、鳥居の向こう側はあまりにも眩しい。
そうこうしているうちに鳥居をくぐると、僕は思わず息をのんだ。
古都でも新都でもないが、京都でもない。
目の前に広がる、真新しい古い町並に。

そこには、江戸時代かと勘違いしてしまうほど、妻籠宿の町並さながら、素晴らしい木造建築が立ち並ぶ情景が、見渡す限りに広がっていた。
空は澄んだ秋晴れで、そよ風は心地よく爽籟が聞こえる。
すると、僕の心を見透かしたように、彼女は口を開いた。
「かつては混沌とした時代があったみたいですね。古い文献によれば、昔は町並みに調和はなくて、隣人どうしで趣の異なった家屋を平気で建ててしまったようです。今では到底考えられませんが」
ほほえみながら、透き通った瞳で辺りを見渡す彼女は純粋そのもので、その説明を真横で受ける僕は、どこか見覚えのある初めて見る光景を目の当たりにして、動揺を隠せないでいた。

ものづくりをしていると、自分の想像を遥かに上回るものが、時折生まれることがある。
たぶんこの感覚は、ものづくりに携わっている方なら共感いただけるはずで、なぜかは分からないけど、図面や思考を凌駕してしまうものが現れるんだ。
そしてそれはいつも、まったく意図をしていない、何気ない日常のふとした瞬間に訪れる。

そう。ここはおそらく、僕が夢にまで見た理想郷だ――。

 

 

小説 浮世離れ。 ボイスドラマ化