学ぶ真似ぶデザイン

子育てをしていると消耗品の類は100均でいいかという気が起きて、ついつい利用してしまう。とくにおままごとセットや砂場のおもちゃなど、その時しか使わないようなものは、これでいい感がすごい。

ただ、思うところもあることは事実で、自分自身が理想のものづくりをしたいと思っている一方で、こういったろころにお金をつかうのはいかがなものかと。

 

プロダクトデザインに関して言えば、明らかに模倣している製品があるわけで、非常に判断が難しい。今日はDURALEXにとても似ているグラスを見つけた。高さは僅かに高く、全体的に若干細いものの、パッと見の造形は一緒。だけど、よく見ると造形のシャープさや口当たりの良さは異なる別のもの。でも、専門職でなければ、はっきりいってどっちでもいいと思われるような、そんなグラスだった。

DURALEXのグラス
100円のグラス

なぜ模倣だと断言できるかというと、これが九角形だったから。僕がもし角のあるグラスを手掛けるなら、六角形や八角形や十二角形あたりを使う。七角形や九角形といった奇数は、ちょっと考えにくい。この思考を明確に説明することはできないけれど、建築の潮流から考えても八角形や十二角形が自然だからだ。

とはいえ、いい側面を考えるとすれば、類似品を安価に手に入れることができ、気軽に誰もが生活水準を向上することができる。

そうはいっても、それら製品を認めてしまうと、本家にも当然影響が出るわけで。視野を広げると、どのような環境で生産されているのか、正当な対価を頂けているのか、深く考え始めるとセンシティブな領域だと思う。資本主義のルールにのっとっているのだから、企業利益を追求するのであれば当然の判断であることもまた事実。最後の判断は個々の道徳に掛かっていると思う。

 

ちなみに、模倣自体は根本的にはいいことだと思ってる。
これは「学ぶ」が「まねぶ」から来ているように、良いものを取り入れること自体は真っ当なことだ。利益とか企業活動とか労働環境等を一旦考えずに、そのものが世の中に与える影響だけを考えるとすれば、良いものを真似たそれも良いものであり、より良い世の中になっていくはずだ。

その上で、単に売れるから真似るというのは何か違和感を覚える。これはどこまで行っても精神論でしかないけれど、そこにはやはり尊敬の念があるべきだと思う。

 

もちろん、完全な創造は誰にもできない。生命も製品も、ありとあらゆるものは、異なる二つ以上のものを掛け合わせて出来ている。だから、真似したそれも、本質的に言えばオリジナルではない。だけど、影響されたことに対しては、素直に感謝したい。

ものをつくる営みって、そういうことだと思うから。