普段から見慣れているふつうの木々を改めてじっくり眺めてみると、意外にも異様な形態をしていることがわかる。多くの木々は複雑な立体造形や独特な質感をしていて、一定の法則性はあるものの、すべてに個性があり各々独自性を有している。それでも、僕らはそれら木々を「ふつう」だと感じている。ここに、次の時代における、来るべき「ものの在り方」が示されているように思えてならない。
僕が生まれた頃には、すでに日用品は手工業による量産から工場による大量生産に変わっていた。用途と価格という面だけを切り取れば、これ以上ないほど便利な社会になったことは間違いない。安価であっても一定のクオリティが保たれているし、実用性も申し分ないもので溢れている。僕が生まれ生きた平成という時代は、まさに文字通り平らに成った時代だ。皆がそれら画一化された品々を手にし、ふつうを好んだ。もちろん全員ではないけれど、大量生産品に身を包んだ人々が圧倒的に多い。美意識の推移として、明治は「ハイカラ」大正は「ロマン」昭和は「モダン」と来て、平成は「ふつう」。僕もそんな「ふつう」に好感を抱いていた一人で、大量生産品の衣服も家具も器も持っている。これでいい。そう思えることは、大げさに言えばある種の美徳と据えることもでき、これについては、儒教における至高の概念とも言える「中庸」と「ふつう」があまりにも類似しているから。単純な中間点ではなく、物事の最も適度なところを良しとする「ふつう」を志向することは、どのような状況下においても幸せになり得る素晴らしい概念ではないか。それも、哲学者のように深く考えることなく、人々が自然体でふつうの選択をしている。このような背景から、工業製品を手掛けるにあたっては意図的にふつうなものを手掛けてきた。例えるならそれらは、辞書で紹介できるようなもの。名称から連想する素直な形を生み出してきた。とはいえ工業製品は、結局は本質的な豊かさへ導いていけるものではないことに薄々気付いてはいた。誰もが同じ衣服を身に纏い、同じ家具を買い、同じ器を使う。そんな世の中が本当に豊かだろうか。答えは言うまでもない。とはいえ無論、全員が奇抜な個性を求める社会も歓迎しない。つまりは、木々のようなふつうを求めている。
「木々のようなふつう」が広まった暁には、秩序を保ちながらも異なる個性を有した、多様性に富む成熟した社会が生まれる。というより、むしろ導いて行こうと思う。豊かさの本質へ。
近年の「ふつう」は、多くの場合「グローバルスタンダード」と認識されて来たように思う。例えば、ふつうの服を買いに行った場合、多くは「洋服」を買ってくることを意味する。他にも、家具を買おうとした場合は「洋家具」であり、お菓子も「洋菓子」と挙げればきりがないが、それらは「ふつう」とは言い難い。なぜなら、そこには本来最も大切にするべき「地域性」がまるで反映されていないから。デザイナーの趣向として「ふつう」が台頭して久しいが、今一度思い返していただきたい。それら「ふつう」は「グローバルスタンダード」だったのではないかと。そして、もしもグローバルスタンダードを目指していたのであれば、それらは、どこの国にとっても最適なものではない。これは「欧米」という言葉に近しく、異なる性質のものを一緒くたに詰め込んだ幻想だ。世界の平均値が各国におけるふつうであることはない。
「ふつう」と「グローバルスタンダード」を同一視してしまった背景には、流通や情報網の発達が関与している。あまりにも容易に地球の裏側の文化や思想を享受できる現代においては、遥か向こうの出来事であっても身近に感じるほどの距離感が生まれているから。もちろん、それらは人々が願ったがゆえに生まれた自由であり、その恩恵を当然のように享受しながら日々を過ごしている。しかし、自由は豊さか、自由は美しいかと問われると、そんなことはないと言わざるを得ない。
ものづくりにおいて今後益々重要になるのは土着の文化や連綿と続く歴史であり、念のため補足するとすれば、文化交流の遮断を促している訳ではなく、その土地のアイデンティティとも言うべき拠り所となる精神性を保ちながら他の文化を受け入れ咀嚼し、新たなものを生み出していくべきだということ。僕らであれば、この日本列島に脈絡と受け継がれてきた精神文化に触れることで本来の「ふつう」に近づける。そんな制約に規制されるよりも自由でいいのではないかという意見もあるとは思うが、制約は美を約束すると僕は確信している。
ここまで語ったのだから僕なりに、拠り所とするべき精神性を少し。
僕は、今の社会では畏敬の念が薄れていると感じている。もちろん、自然をおそれる必要はないのだけれど、尊ぶ必要はあるように思う。単純に言えば、ものを手掛けるのであれば素材に感謝したり、その素材を恵んでくれた自然に感謝したりといったこと。どうしても資本主義社会では素材はただの物質として扱われやすい。しかし、この日本列島には、それら恩恵に感謝する風習が少なくとも縄文時代からあった。表現の仕方はどうあれ、僕はこの土着の霊性を繋いでいきたいと思っている。
一方で、文化の起こりは一人の人間からだとも思っている。それは縄文土器にしても日本建築にしても、今に伝わる伝統すべて。無論推測でしかないが、この感覚をお伝えするとすれば、芸術家が生み出し職人が完成させる。そうして伝統文化になるのだろうと。
一個人の嗜好は、一国のふつうにも成り得る。