制約の美

一昔前は制約によって美が担保されていた。
限られた素材、限られた道具、限られた情報下においては必然的に成果物は似通ったものになる。これら制約は紛れもなく土着の文化形成を促し、例え無意識にものづくりをしたとしても、地域性を反映した美しいものが生まれた。

こう書くと「美とは何か」という議論になるが、少なくとも私は、環境との調和がとれているものに美しさを感じる。(無論、美の種類は無数に存在する。)

では現在はどうかといえば、無意識にものづくりをしたとしても、地域性を反映した美しいものは生まれにくい。人々は素材の自由、道具の自由、情報の自由を手に入れ、美を担保していた制約からも自由になった。流通や情報網の発達によって地球の裏側の思想や文化が容易く手に入る以上、地域を問わずあらゆるものが生まれる土壌がある。当然のように享受してきた土地の固有性は選択の自由により薄まり、多国籍かつ多様性を帯びたものが当たり前となった。一見自由で良いように思うが、方向性が散らばった成果物の集まりに美を見い出すことはむずかしい。

自由だからこそ今一度、意識的にものづくりをするべきなのだと思う。海外への憧れはもちろん個人の自由だ。だが、日本で使うものであれば、日本のものであるべきだ。

美は、制約づくりから。

 

参考文献
鈴木大拙(1972)『日本的霊性』 岩波書店.
B・ルドフスキー(1984)『建築家なしの建築』 鹿島出版会.
柳宗悦(1985)『手仕事の日本』 岩波書店.
栄久庵憲司(2000)『道具論』 鹿島出版会.
柳宗理(2011)『柳宗理 エッセイ』 平凡社.