ものづくりの対価

手掛けた成果物を心から褒めて頂けたとき、そのものをついあげたくなってしまう。資本主義社会においてそんなことを続けていては生活に関わるということを理解していてもなお、そんな気持ちが芽生えることがある。もちろん自身の中では等価交換は成立していて、紛れもなくそこには、対価として頂いた心の充足がある。

何のためにものをつくるのか。この究極的な問いの答えは、「たのしいから」という、子供が遊ぶ動機とまったく同じ理由に到達する。これは幼いころから今まで、そしてこれからも変わらない永遠の理由。だから正直なところ、褒め言葉を頂けた時点ですでに満足していて、お金は常に副賞みたいなものだ。マルセル・モースの贈与論では返礼は義務として捉えられているが、正直なところ義務とか権利とかそんな次元ではなく、奉仕とも表現したいほどの与えたくなる強烈な希求が生まれる。もはや贈与は欲求だ。

以前、ある方の作品を絶賛したことがあり、あろうことか展示会の最後に作品をひとつくださった。頂けないと何度かお断りをしたが結局頂いた。その際、私も何かお返しをと、良かったら名刺のデザインをさせてくださいとお伝えし、もちろん無償で手掛けさせて頂いた。その名刺を喜んで頂きようやくお返しができたと思ったら、次は手ぬぐいをデザインして欲しい、それもデザイン料も支払うと。この幸福な循環に感動したとともに、純粋な贈与は誰もが持ちうる感情なのだと悟った。
理想的なものづくりを導くにあたって、どのような社会を歓迎したいかを考えることがある。今日の資本主義社会は賛否はあれど、誰もが挑戦でき、その成果物によって得られる対価が左右される実力社会であることは、ある意味で弱肉強食の自然な摂理とも言えなくもない。一方でお金でお金を儲ける、いわゆるマーネーゲームの方が品物やサービスの売買よりも遥かに取引されている現状を踏まえると、直観として何か冷淡な印象を持ってしまう。ただ、中には前述のようなあたたかな営みが存在することも確かだ。この幸せな経済圏を広げていくことが、今できるある種の社会貢献だとすら感じる。

おそらく資本主義社会で最も足りていないのが道徳や感謝で、もので媒介しているものをもっと意識する必要がある。宗教を科学が現実に引きずり呪術を裸にしたが、言霊や魂を込める、わかりやすいものでは恩返しといった目には見えないものを信じる習慣は、生きることの本質へと導いているように感じてならない。物質として認識できるものがすべてだとは思えないから。家を建てる際に執り行われる地鎮祭があるが、こういったことは本来あらゆるものごとに対して感じるべきなのだと思う。ものを成す素材に感謝し、素材を育んだ土地に感謝し、作り手は使い手に感謝し、使い手は作り手に感謝する。当然のように行われていた習慣を今日にこそ活かしたい。原始社会や幼少期には、理想的な社会を実現するヒントがある気がしている。

もし理想郷がこの世に存在するとすれば、その社会における最大の対価は「よろこび」だ。

 

参考文献
マルセル・モース(2009)『贈与論』 筑摩書房.