然るものづくり

きれいな時代だ。

毎日のように洗濯をして、清潔な衣服を着て、新鮮な食材を食して、室内は清掃をすれば素足でも歩けるし寝転んでも構わない。手にするものも精度よく作られたものが大半。外を歩いても靴に泥がつくことなどほとんどない。本当にきれいすぎる時代だと思う。

だからこそ、真逆のことに興味がある。
CADやNCでは到達しえない、然るべき形とでも表現しようか。
人が意図できない、在るがままと偶然が共鳴するような「ものづくり」を。

 

6月4日。
梅雨入り前の貴重な晴れ間に、家族で河原へ出かけた。
河原は近いため毎週のように足を運んでいるが、その日は川辺までおりて子供と石を川へ投げて遊んだ。

それ自体は何てことはない、よくある日常の光景だった。

しばらく子供と一緒になって石を川へ投げて遊んでいたところ、石のようだけれど、しっとりとした、黄色味を帯びた塊を手にした。

浅川の粘土
浅川の粘土

川の水をかけると少し溶けたことから、それが粘土であることはすぐに分かった。手のひらよりも若干大きなそれはとても魅力的な塊で、思わず無性に何かをつくりたくなった。

浅川は大雨が降るたびに地形が変わる。今考えると、おそらくその塊は川縁の一部が流水で削られて流されたのだと思う。

道具といえば同じく河原に落ちている石で、尖った石をあてがうと割と簡単に削ることができた。思い返せば前日に雨が降っていたから、適度な水分が粘土に含まれていたのかもしれない。

削っている時間は本当に幸せな時間で、こういうことがやりたかったんだなと、素直に思った。

ちなみに初日のそれは完成間近で欠けていまい、そのまま川に流した。土という素材を文字通り土に還えした、何だか不思議な体験だった。

 

次の日もまた、河原へ出掛けた。今度は陶芸の道具も持って。

前日に目を付けていた粘土を削ってみると、昨日よりも明らかに硬かった。乾燥の具合でこうも違うのかと思うほど。

それでも、この行為自体に喜びを感じていた。

削っては川の水を掛け、定期的に湿らせながら形づくる。気付くと、右手の指の皮が少し剥けていた。人差し指は第一関節と第二関節の間、中指は爪と第一関節の間だった。両方とも指の左側面で、どうやら作業で最も力の掛かるところらしい。久々に6時間ほど彫刻の作業をしたため、指がびっくりしたのだと思う。土とはいえ乾燥が進んでいてそれなりの硬度があった。

陶芸はしばらく離れていたけれど、はじめて本当に向き合えた気がした。

漂着している粘土は、その存在そのものが魅力的で、あとはどのように、その在りのままの魅力を携えたまま関われるか。そこに審美眼と造形力が問われる。人間のエゴなど自然の産物の前では平伏してしまう。それほどに自然が成す形は美しい。無作為の作為、作為の無作為とでも表現しようか、正しい言葉が見つからない。とにかく、自然と一体となって、共鳴して生み出すことができたなら、本物が生まれる、そんな確信を持てる感覚があった。

作り方としては陶芸の常識は逸脱していて、分野を表すなら陶芸作品というよりは彫刻作品のほうがしっくりくる、そんな工程だった。菊練りをしたわけでもなく、轆轤や紐造でもない。ただ、土の塊と対峙し削り出した。

帰宅してから、念のため今回行った行為が法に触れていないかを調べてみたところ、個人が常識の範囲で川の石や土を持ち帰ることは認められているとのことだった。

世の中には流木の専門店なども存在していることから、自然物を拾う行為自体はある程度許容されているのだと思う。もちろん大掛かりな採掘などはご法度。

 

5日ほど乾燥させて、窯で焼いてみた。
釉薬は透明釉を生掛けして、温度は800度。

一晩経って窯を開けると、原土の魅力をそのまま体現した器が生まれていた。

陶芸作品 浅川焼
浅川焼
陶芸作品 浅川焼
浅川焼
陶芸作品 浅川焼
浅川焼
陶芸作品 浅川焼
浅川焼
陶芸作品 浅川焼
浅川焼

 

本当に、心の底からこんなものづくりがしたかった。
ようやく出会えた瞬間だった。

幸せや理想は、意外と近くに転がっている。